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概要

しんゆり人 NO.004 2019 AUTUMN

|映画祭が生まれた1995年当時、まちはどんな様子でしたか?映画祭に関わったきっかけを教えてください。白鳥 当時の新百合ヶ丘駅前はまだ空き地で、柿生にある我が家の周辺でもタヌキがうろちょろ(笑)。日活で一緒に仕事をした、私の仲人でもあるイマヘイさん(故・今村昌平監督、日本映画学校〈現・日本映画大学〉創設者)に、「このまちには文化らしきものがない」と愚痴をこぼしたら、「文化は自分たちで作るんだ!」と一喝されましてね。この頃、川崎市から「芸術のまち構想」の一環として映画祭を開催したいと協力要請があって、イマヘイさんの一番弟子の武重邦夫さん(映画監督、映画祭初代代表)を中心に協力することになったのですが、イマヘイさんが私にも手伝うようにと。お世話になった仲人ですから断れませんよね(笑)。映画祭の誕生と継承新百合ヶ丘のまち・人と映画祭KAWASAKIしんゆり映画祭 代表 中山 周治 さん × スクリプター・脚本家 白鳥 あかね さん02中山 私は高校の英語教師でしたが、「総合的な学習の時間」の授業に映画を取り入れていて、その授業にご協力いただく中で、日本映画大学の千葉茂樹さん(映画祭元代表)と出会いました。千葉さんに大学で映画教育の講師をしないかと声を掛けられ、大学で教えていたのですが、ある時、千葉さんと白鳥さんに呼び出されて、映画祭の代表になってほしいと言われたんです。白鳥 千葉さんと私は同世代だから、年齢的にも後継者を見つけなければと、それはもう必死で。中山さんは高校や大学で映画教育に携わってこられて、しかも地元のご出身。「こんなにふさわしい人はいない!絶対逃してなるものか!」と思い口説きました(笑)。中山 ずっと自分が学校でやってきたことを、学校を離れてやるのも面白いと思い、お引き受けしました。代表という重いバトンを受けとりました。|後継ぎが見つかって本当に良かったです。ところで白鳥さん、映画祭立ち上げの際には、かなりのご苦労があったのではないでしょうか?白鳥 よその映画祭に顔を出したことはあっても、自分たちで映画祭を立ち上げるのは初めて。全くの手探り状KAWASAKIしんゆり映画祭【Profile】白鳥あかね1932年生まれ。東京都出身。新藤兼人監督『狼』でスクリプター助手を務めたのち、1955年日活に入社。以後スクリプターとして数多くの作品に関わり、脚本家としても活躍。KAWASAKI しんゆり映画祭代表、あきた十文字映画祭顧問を務めるなど、広く映画普及に寄与した功績により2004年文化庁映画賞映画功労表彰部門受賞。著書に『スクリプターはストリッパーではありません』(2014年、国書刊行会)。中山周治 1962年生まれ。神奈川県出身。日本映画大学で「子ども映画教育演習」を担当。元神奈川県立高校教諭。自作戯曲「けさらん、ぱさらん。」で神奈川県高校演劇発表会最優秀賞受賞。「240人でエレベーターに乗るプロジェクト」で日本演劇教育連盟冨田賞受賞。「失敗力を鍛える映画制作の授業」ほか、さまざまなアートプロジェクトを展開。 第1回からKAWASAKIしんゆり映画祭を支え、2000年から足掛け9年にわたり映画祭代表を務めた白鳥あかねさんと、現代表の中山周治さん。新旧代表の対談が実現した。KAWASAKI S HINYURI FILM FESTIVAL01SpecialTalkしんゆり人 NO. 004 2019 AUTUMN 6